第5回:顧客との距離を、構造で守る|ゼロリセットで考える、強い会社の設計論
「ゼロリセットで考える、強い会社の設計論」は、BtoB製造業向けソフトウェア事業を立ち上げる創業者が、強い会社をゼロから設計し直す全9回の連載です。
会社が顧客から離れていく瞬間は、売上が落ちる何ヶ月も前に静かに訪れる。経営会議の数字が、いつの間にか社内都合の数字に置き換わったとき。顧客ニーズの解像度は、努力ではなく距離の関数だ。30年の営業経験からはっきり言えるのは、解像度を守るには構造しかない。フロントのN数から、KPIと報酬の連動まで。五つの層で書く、連載第5回。
本稿の用語
| 用語 | 意味 |
| N数 | サンプル数。ここでは、顧客と直接接する人員の母数のこと |
| KPI | 経営や事業の状態を測るために設定された、定量的な指標 |
前回、事業構造に思想を埋め込むという話を書きました。月次解約と低初期費用、営業インセンティブの再設計、属人性の資産化。これらは、理念ではなく構造として、顧客側に立つことを自分たちに強制する仕組みです。ただ、どれだけ顧客側に立つ事業構造を作っても、組織のほうが顧客から離れていけば、その構造は機能しません。今回はその話、顧客との距離の話です。
会社が顧客から離れていく瞬間というのは、売上が落ちる何ヶ月も前に、静かに訪れているように思います。具体的には、経営会議で見ている数字が、いつの間にか社内の都合で作られた数字に置き換わった瞬間です。売上、粗利、受注件数、稼働率、開発進捗。どれも経営に必要な数字ではあります。ただ、これらに共通しているのは、全て社内側から見た数字だということです。顧客がそこにいない。顧客が何を感じ、何に困り、何を諦めたかが、一行も出てきません。
この状態で意思決定を続けると、会社は社内最適に向かって、まっすぐ進んでいきます。本人たちは、ずっと顧客のことを考えているつもりで、です。
正直に書いておきますと、今の自分の最大の武器は、戦略でも、技術でも、資金でもありません。顧客と物理的に近いこと、それだけです。創業してまだ間もないので、営業は自分でやっています。最初の問い合わせも、デモも、見積もりの説明も、契約後のフォローも、自分の手と口でやっています。だから、顧客が何に困っていて、何に怒っていて、何に目を輝かせるのかが、生々しく見えます。
これは特別な才能ではなく、距離が近いから見えているだけのことです。BtoB製造業の領域で30年間、営業の現場に立ち続けてきた経験から、はっきり分かったことが一つあります。顧客ニーズの解像度は、距離の関数だということです。近ければ高く、離れれば指数関数的に落ちていきます。会議室で立てた仮説と、現場で出てくる本音のズレを、何百回も経験してきました。
つまり、今この瞬間の解像度の高さは、自分の手柄ではありません。会社が小さく、自分が現場にいる、というだけのことです。そして、これは放っておけば必ず失われていきます。会社が大きくなれば、創業者は現場から離れざるを得ません。資金調達、採用、組織設計、対外交渉。やるべきことが増えていけば、営業の一線に立ち続けることは、物理的にできなくなります。
解像度は、努力で維持するものではないと思っています。努力で維持しようとしている時点で、もう構造が負けています。
ここから先は、構造の設計の話です。「経営者は現場に出るべき」というのは、多くの本に書かれていることですし、それ自体は正しいのだと思います。ただ、書いてあることと、できていることの間には、大きな川が流れていて、ほとんどの会社が、その川を渡れていないように見えます。「気をつける」「意識する」というレベルの話にしているからです。気をつけるだけでは、忙しさに必ず負けます。意識するだけでは、組織の階層に必ず吸収されます。
だから、構造の話にしたいと思っています。顧客との距離を構造で守るというのは、自分なりに整理すると、五つの層に分かれます。
一つ目は、フロント人員を自前で抱えることです。
会社単位の顧客ニーズの解像度は、結局のところ、フロントに立つ人員をどれだけ自前で抱えているかで、ほぼ決まると考えています。営業を代理店や商社に任せている会社は、そこから上がってくる情報が、必ず一段、二段と加工されています。受注しやすい話、説明しやすい話、自分たちの責任にならない話。そういう順番に整えられて、上がってきます。生の声は、そこにはありません。代理店や商社に頼った瞬間、会社は顧客から二段階離れます。これは効率の話ではなく、解像度を組織内に保持し続けるための構造です。
二つ目は、N数の確保です。
フロント人員を自前で抱えるべき理由は、解像度の保持だけではありません。N数の問題があります。ある程度のフロント人員を抱えていると、その中から確率論的に、極端に解像度の高い人間が出てきます。知的好奇心が異常に強い人、観察力が突き抜けている人、顧客の話を聞きながら、その背後にある業務構造を勝手に組み立て始めてしまう人。こういう人材は、狙って採用できるものではありません。一定の母集団があって、初めて自然に出てくるものです。母集団が小さければ、そもそも出会えません。
こういう人が組織の中に何人かいると、会社全体の解像度が、明らかに変わります。一人の解像度の高さが、組織全体の判断の質を引き上げる。だから、フロントのN数というのは、単に営業力の話ではなく、解像度の高い人材が出現する母集団を抱えることだと思っています。
三つ目は、その人材の声が、加工されずに経営に届く経路を作ることです。
通常の組織では、現場の声は、担当者からマネージャー、部長、役員という階段を上がっていきます。各段階で要約され、整理され、角が取れていって、経営会議に届く頃には、平均値と傾向だけが残っています。整えられたレポートを否定するわけではありません。経営に整理された情報は必要です。ただ、整えられた情報だけを見ている経営は、整えられた現実しか知らないということです。
だから、解像度の高い人材の生の言葉が、組織図とは別の経路で、加工されずに経営に届く構造を作っておきたいと思っています。役職の階段を経由しない経路。これは、組織図の中では非効率に見えますが、判断の質を守るためには欠かせません。
四つ目は、KPIを顧客側に置き直すことです。
経営会議で並ぶ指標が、社内側を向いているか、顧客側を向いているか。ここを設計し直さない限り、いくら現場の声を吸い上げる経路を作っても、最終的な意思決定は社内最適に流れていきます。社内側のKPIは、自社の活動量を測る指標です。これは経営に必要ですが、これだけを見ていると、売れているのに顧客は困っているという状態を見逃します。
顧客側のKPIというのは、顧客が自社のプロダクトを通じて、自分たちの業務の中で何をどれだけ得られているかを測る指標です。解析にかかっていた時間がどれだけ短縮されたか、判断ミスがどれだけ減ったか、属人化がどれだけ解消されたか。それから、顧客が継続してくれている期間、累積で生み出した価値の総量、解約率、解約理由の質的な傾向。顧客の業務の中で、何が良くなったかと、その関係がどれだけ続いているかを、自社の指標として持つということです。
ただし、ここで注意がいります。顧客側のKPIを一つに決め打ちした瞬間に、その指標自体が社内最適化の対象になります。数字を上げるための数字になり、また顧客から離れていきます。だから、顧客価値を測る仮説は、複数持っておきたいと思っています。時間短縮が意思決定の速度に効いているのか、判断ミスの減少に効いているのか、属人化の解消に効いているのか、他業務への時間の振り向けに効いているのか。似ているようで、全く違う価値です。どれが本命かは、顧客によっても、時期によっても変わります。複数の仮説をKPIとして並走させ、どれが実際に効いているかを検証し続ける。これが、解像度を時間軸で維持するための、地味だが効く方法だと考えています。
五つ目は、KPIと報酬の連動です。
ここが、たぶん多くの組織で抜け落ちる層だと思っています。KPIを顧客側に置き直しても、社員の報酬がそのKPIに連動していなければ、現場の行動は変わりません。報酬は、KPI以上に、現場の行動を直接的に動かします。報酬と切り離されたKPIは、観察される指標にとどまり、判断や行動の前提にはなりません。
だから、KPIと報酬は、地続きで設計する必要があります。継続率、業務価値の実現度、顧客が累積で生み出した価値。これらの顧客側KPIに、営業や事業責任者の報酬を連動させる。前回(第4回)書いた、営業インセンティブを初回取引と継続契約で同等に扱う設計は、ここで初めて完全な形になります。事業構造として継続を重視し、KPIとして継続を測り、報酬として継続に応える。この三つが揃って、初めて顧客側に立つ組織が完成します。
フロント人員を自前で抱える。N数を確保する。生の声が加工されずに経営に届く経路を持つ。KPIを顧客側に置き直す。KPIと報酬を連動させる。この五つが組み合わさって、初めて顧客との距離は構造として守れます。どれか一つでも欠けると、必ずどこかから解像度が漏れ、現場の行動がズレていきます。
そして、この五つの構造を持っていても、トップ自身が現場から離れた瞬間、構造は徐々に形骸化していきます。だから、トップが現場に出続けることそのものも、努力ではなく条件として組み込んでおきたいと思っています。顧客接点を経ない議題は、そもそも議論の対象にならない。そこまで構造化しておかないと、忙しくなった未来の自分は、必ず楽な判断に流れます。
ここまで書いてきたことは、顧客満足のためという以上に、会社が判断を間違えないための設計だと思っています。顧客から離れた経営は、必ず間違える。これは精神論ではなく、情報の経路を考えれば、構造上そうなります。
そして、BtoB製造業の領域で、組織サイズに関係なく解像度を維持できる会社は、極めて少ないように見えます。技術は模倣されます。価格は追随されます。ただ、顧客の本当の困りごとを、本人より先に言語化できる能力は、組織構造に埋め込まれていない限り、必ず失われていきます。これを構造として持っている会社は、それ自体が長期の競争優位になります。顧客との距離を守ることは、創業者の感傷ではなく、最も合理的な投資だと考えています。
人が強くなり、顧客との距離が構造で守られ、事業構造に思想が埋め込まれていく。これが進んでいくと、ある時点から、会社は一つの組織のままでは収まらなくなります。
次回は、強い会社グループという必然について書きたいと思います。
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